静脈日記

ひたすらに世迷言

「良い」、「悪い」の物差しを捨てよう。

今日は回りくどい悪口かも知れない。

流石に不快になる様な事は言わないと思うけど。

 

ブログでぼくは
「ブスが〜」
とか書いてたけど、本当はそんな事普段から考えてない。

それは中学生の時に周りの男の子達が
「○○はブスじゃね?」とか「○○は可愛いよな」なんて会話をしていた。
男女問わず異性を対象にそんな会話は絶対するだろう。

 

ぼくはその会話に入った時に
「あれ、なんかこの会話、品が良くないなぁ」
って、感じてそれからは人をそう言う物差しで見ないようにした。
ぼくは別に上品な人間じゃないけど、下品な物が余り好きではない。
(だからか下ネタもそんなに得意じゃ無かったりする)

 

ぼくの直感は当たっていて、「○○はブス、○○は可愛い談議」は、ずっと周りの会話の中にあって、歳をとる毎にやっぱり、より品のない表現に変わっていた。


「良い女、そうではない女」
「良い男、そうではない男」

 

もしかすると、それをステータスとして見てる人も多いかも知れない。
別にぼく個人の事だから、それ自体が悪いとも思わないし、寧ろ友達との会話の中で出て来るのは健全だし、面白いんだろうなとも思う。
(文とかでも下品な方が面白かったり、バカな方が面白かったりするし、ぼく自身あえて寄せて書く事もある)

 

ただ、ぼくはその物差しの会話に上手くノれない。
だから、入れ替えるように
「好きか嫌いか」
の物差しで物事を見るようにした。

 

これがめちゃくちゃ思考を楽しくしてくれた。

 

それまでは周りの様に
「あの子はブスだ」「あの子は可愛い」
と言う見方をして、多数が言う「ブス」はブスだと思う様に、「可愛い」は可愛いと思う様になっていた。


これはきっと「無意識下での好みの矯正」が行われているからだと思う。
しかも思春期、真っ只中の脳内の出来事だ。
それは多数派の方が安心するだろう。

「好きか嫌いか」の物差しで見る様なってからは
「みんながブスって言うからブス」
「みんなが可愛いって言うから可愛い」
が無くなっていて、フラットな見方が出来て尚且つ、踏み込んだ思考で人を見られる様になった。

これは中学生にしては、少しオマセさんな考え方だったろうし、絶対に後々ぼくが捻くれた要因の1つだろうけど「好きか嫌いか」で見れると案外、嫌いな人って少ないからぼくは思春期にありがちな「異性を意識しすぎる」みたいな事が無くなって男女問わず同じ温度で接する事が出来てたと思う。(確か通信簿にもそんな事書かれてた気がする)

 

あとは人だけじゃなく、物の一つ一つに「好き嫌い」で判断出来る様になるから争いが減る。
「良い悪い」だと角が立つのに「好き嫌い」だと角が立たない事がめっちゃ多い。

平穏に暮らせる。

そう、平穏に暮らせるのだ。

(吉良吉影なら大歓喜)


大人になると「良い悪い」で見る事は自然と減ると思う。
一定の価値を超えると「好き嫌い」で見るしかない物が増えて来るし、勝手に角が立たない様に出来るからだろうなぁて思ってる。

 

例えば車だって、「高級車の方がいい車だから」
って理由じゃ選ばない。


でも包丁位なら興味がなくても「100円の包丁より1万の包丁の方が良い包丁だから」位の理由で選んだりする。(勿論、好き嫌いで買う人もいると思うけど)


時計だってお金持ちなのにG-SHOCKが好きだから」なんて理由で付けてる人とかよく聞くじゃん?


やっぱ一定の価値を越えたら結局「好き嫌い」つまりは「好み」で選ぶって事じゃん?

 

 

 

 

「良い女、そうではない女」
「良い男、そうではない男」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、人間ってゆーてもそんなに価値ねぇんだな。

 

 

 

 

頭文字D読んでたら更新遅れてしまった。