静脈日記

ひたすらに世迷言

愛って悲しいね

今日はブログ書くつもりで書かない。

相変わらずやる気がないどうでもいい雑記、散文。

 

思えばぼくは小学校の頃から「どうでも良い」と言う考えで生きていたのだなぁと。

当時は特に自然に見えるものとか聞こえるものとか深く考えてなかった見たい。

だってド田舎でタワレコがないってのが理由で修学旅行、タワレコ行ってミドリのCD大量に買ってその後何も出来ないくらいに、その掛け替えのない時間を使う人間だったんだもん。

 

このブログは毎回ぼくのノスタルジアな部分に触れて書いてる気がするけど何でだろうね。

郷愁主義者なんだろうか。

 

昨日かな一昨日かなそのまた前の日かな?

仕事帰りに何時ものように同じ道を何時ものように自転車で帰る。ただ、いつもと違ったのはただT字路の真ん中で偶々“右”を見ただけ。

そしたら綺麗なオレンジ、黄色の落ち葉がたくさん落ちててさ。あれはイチョウかな?

その雑に広がってる落ち葉の道を白街灯がずっと奥まで規則正しく照らしてるんだよ。

ぼくは「なんて最高な景色なんだろう」って思ってさ。ただ偶々“右”を見ただけだよ?

それだけで感情が高まるんだよ。

当たり前の事なのかもしれないけどそれって人生の中で、奇跡であり真理なんじゃないかなぁと。

最近、自分がどうなりたいかとか何も考えない日々が続いててそれが幸せでそれでよかったんだけど、なんか自分じゃないなぁって感覚もあってね。

ぼくには幸せなんて似合わないし詩人は少し悲観的な方がいいと思って生きていたのになんかそう言う感情で少し自分が分からなかったのだけれど、その景色を「最高だ」と思える、道に落ちてる季節を感じられる、そんな感性があってよかったと心から思った。

 

あとね、たまに凄く低い目線、立ったばかりの子供くらいの目線で雨を見てる夢を時々、何日も続けて見るんだよね。

不思議な事に人間って初めて雨を観た時の感情って味わってる筈なのに覚えてないんだよね。

「それって凄く勿体無いなぁ」って中学校3年位の時に思ったのがきっかけだと思うけど、そんくらいの時からずっと見るんだよね。

未だにその感情をどうしても思い出したくて、と言うか最早知りたくて、知れるのならば対価として初恋の記憶位なら失ってもそんなに問題ない。

 

「歳をとると感性が死ぬ」とか言う表現者気取りの奴が知人でいたけど、感性は死なねぇよ。

お前が棄ててるだけだよ。

お前にとって自分の生きる中でそのお前が言う感性って奴はその程度のものだったって話なんだよ。

友達と呑むのが楽しい、ゲームが楽しい、恋人とずっと一緒に居たい、幸せになる為に働く、働きたくない、考えたくない

全部感性じゃねぇか。

それを引っ括めて表現出来ないだけじゃんか。自分の無能さを感性の所為にするなよ。

ぼくもそんなもん引っ括めて表現出来ねぇから貪欲になるんじゃんか。

そう言うことに貪欲にならない時間って、それは表現するよりも幸福な事に直面してしまってるってことじゃんか。と言うか貪欲になってる時間が幸福じゃんか。

あんたが表現者じゃなかったってだけのことじゃん。

 

こんな考え方だから不安になってたんだなぼくは。感じたり考えたりしていたいんだな。きっと。

 

 

今日は、頭の中の整理と幸せである事に不安を感じてる人間が純粋に幸せな人間に対する悪口を言う文でした。

誤字脱字多いんだろうなぁ。

 

こんぐらいの量がいいね。

クソみたいな雑誌のクソみたいなコラムみたいでさ。